「まちかどノーマライゼーション」

ノーマライゼーション 平成14年2月から4年半にわたり、情報誌「fooga」(発行コンパスポイント)に連載コラム「まちかどノーマライゼーション」を掲載し、ノーマライゼーション思想の普及を行いました。

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筆者プロフィール

伊藤勝規
1964年宇都宮生まれ。
高校時代に宇都宮車いすガイドブック作りに参加したのをきかけに福祉道に入る。
「福祉」を慈善ややさしさとは切り離し、独自の視点で語ることをモットーとする。

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2004年12月号 「『福祉』どこから来て、どこへ行くのか」

私たちの生きるこの社会には、「福祉」という概念が存在します。
それは、たとえば保育園や老人ホームのような施設であったり、
生活保護や高額医療費の助成などの行政制度であったり、
またはボランティアや募金のような個人の行為であるわけですが、
そのような「福祉」が、何故この世の中に存在するのか、考えたことがありますか?

日本国憲法の第25条には、
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書いてあります。
一般には、「福祉」の存在はこの憲法に由来すると信じられており、
これ以上理由を遡ることは稀です。
しかし、「なんで憲法にこんなことが書いてあるの?」と疑問を持った瞬間から、
私の小さな脳ミソは堂々巡りの思考を繰り返すのです。

「人間は生まれながらに生きる権利を持っている」とよく言われますが、どうなのでしょう。
たとえば、「大嵐で旅客船が遭難、大海の孤島にふたりの人間が流された。
食料は1人分のみしかない!」というような状況を考えてみると、
「生まれながらに生きる権利を持っている」わけではなさそうです。

憲法前文には、
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し・・・」
とありますので、「福祉」は、国民が望み国政に信託しているものであることがうかがえます。
何故、国民は「福祉」を望むのでしょうか。
それに対する私の答えはこうです。人間は誰しも、明日どうなるかわかりません。
事故や病気で障害を負ったり、職を失ったりという可能性は誰にでもあります。
生きるということは、常にその危険性をはらんでいることなのだと理解したとき、
その備えとして「福祉」を望むのではなでしょうか。

先日、ホームヘルパー養成の講義をしたとき、参加者からこんな質問を受けました。
障害を持つ高齢者が自宅で生活をするために、
介護保険では20万円を限度として その9割を給付しているのですが、
「20万円で十分な改修が出来るのですか?」「それでは少なすぎる。」
という意見をお持ちのようです。
十分とはいえない場合も多々あるというのが私の答えですが、
「給付を増やすといくことは、その分保険料として負担する金額も増えるということですから」
と付け加えて説明すると、納得して帰られました。

国が順調に発展し、人口も増え続けていた時代、負担はあまり議論されず、
「福祉」は、国から与えられる、または奪い取るようなものでした。

しかし今、年金にしても介護保険にしても、
「これだけ給付するのなら負担はこれくらい」という議論が活発に行われています。
変わってしまった時代を恨むわけにもいかず、 「福祉」という言葉に秘められた
甘いひびきが幻想と化してしまったことに、早く気づかないといけません。
そう、昔も今も、これが「福祉」の現実なのです。

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