「まちかどノーマライゼーション」

ノーマライゼーション 平成14年2月から4年半にわたり、情報誌「fooga」(発行コンパスポイント)に連載コラム「まちかどノーマライゼーション」を掲載し、ノーマライゼーション思想の普及を行いました。

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筆者プロフィール

伊藤勝規
1964年宇都宮生まれ。
高校時代に宇都宮車いすガイドブック作りに参加したのをきかけに福祉道に入る。
「福祉」を慈善ややさしさとは切り離し、独自の視点で語ることをモットーとする。

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2004年1月号 「『ボランティア』に思う」

「愚か者とは私のことを言うのであろう」
12月号のコラム「栄ちゃんの黄色い魔法のランプ」の中で廣辻さんが吐いたこの一言に、
封印していたはずの私の過去がまざまざとよみがえってきました。
今年は、私が「福祉」と言われる世界で活動を始めて25年、
「四半世紀」と言えばそれなりの重みも感じられますが、その始まりには、
まさに「愚か者」の私がいるのです。

15才、とある県立高校に通っていた私は、豊かな学生生活を送る必須条件として
「彼女」が欲しいと考えました。ところが学校は男子校、おまけに徒歩通学と、
女の子と出会えるチャンスはほとんどありません。
そこで思いついたのが、ボランティアサークルです。
「ボランティアをやっている女の子なら、優しくて思いやりがあるに違いない。」
そう確信した私は、さっそく市の社会福祉協議会に手紙を出し、複数のサークルの紹介を
受けましたが、担当の方の「このサークルには看護学生さんもいますよ」の一言で
社会人中心のサークルに入り、活動を始めました。

障害を持つ子ども達と体を張って遊び、一人で暮らすお年寄りの家を訪問して
楽しい時間を過ごし、オリオン通りでバリアフリーの調査をしてと、
いろいろな活動をしましたが、不純な動機とは裏腹に、この世界には、
高校生の自分を充実させてくれる様々なものがありました。
感謝されること、認められること、考えさせられること、悲しむこと・・・。
いま振り返れば、私の人生を方向づけた数年間だったことは間違いありません。

ボランティアに対するイメージ、特にその活動を外から見ている人にとっては、
「優しくて思いやりの深い人が行う、立派な活動だ」というのが一般的でしょう。
しかしその世界に入り込むと、そのイメージは、「施す立場」と「施される立場」を
区分した上で成り立つものであって、いかに無理解であったかということに気づかされます。
与えようと入った世界のはずが、たくさんのものを与えられることに気づくのです。

私が、「福祉」を慈善や優しさから切り離して語ろうとするのも、
そういう経験からのことです。もちろん、慈善や優しさが不必要であると言いたいわけでは
ありませんが、「障害があっても社会の構成員として対等な関係であり、
すべての人々が普通に暮らしていける社会環境を築いていく」という
ノーマライゼーションの考え方とは、相容れない要素なのです。

そんなわけで、私がこのページにこんなことを書いているのも、
不純な動機で始めたボランティアのお陰だったわけです。

さて、もうひとつ大切なことを書いておかなければなりません。
そのサークルで、恋のキューピットが私に微笑みかけることは・・・?

残念ながらありませんでした。

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